傘の花咲く長屋の端で 


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 おや、あたしの話にお付き合い頂けるんで? そりゃありがたい。暇潰し程度でやんすが、どうぞよろしく。
 まずは場所から語りやしょうか。あたしは猫なもんで、人間さんのことはよく分かりやせんが、屋根の上に登ってみると大きなお城が見えやしてね。お城の名前は中津城……とか言いやしたか。皆さんお城お城言うもんだから、あたしもお城としか言いやせんが、そのお膝元にある城下町が舞台でやんす。
 さらに言うと、あたし、これでも飼い主のいる身でね。人間さんの住む長屋に住んでるんですよ。と言っても、勝手にあたしが居座っているだけなんですよね。居候、でやんすかね。
 細い道の両脇にずらりと平屋が並んでて、時折子供があたしを見付けて追いかけてくる。表の方へ行けば店も並んでやすが、ちょいと裏に入ったここらも十分にぎやかで。その端っこの家の話でございやす。

−傘の花咲く長屋の端で−

 ご主人の名前は福龍さん。「福を呼ぶ龍」なんて、強そうで縁起がいい名前でしょ? どうせ「にゃー」としか聞こえてないでしょうが、あたしは福さんって呼んでやす。長屋の皆さんもそう。
 年の頃は二十代半ば、くらいでしょうか。二枚目ちょいと手前の顔立ち、と言っちゃ失礼でやんすかね。人並みより上、の方が聞こえもいいし適切ということで。結い上げてある髷は外に出る時以外は解いてあって、馬の尾っぽみたいになってたりしやす。あれにじゃれるのがまた楽しい。
 お仕事は傘職人。お酒に酔って昔は腰に刀差してたなんて言ってたこともありやしたが、多分あれは嘘ですね。素っ気ないとこのある傘屋の兄さんでしかありやせん。
 結構物を知ってるお人で、近所の子達があれこれ聞きに来たりもしやす。傘作ってる福さんの近くに子供が集まって、まるで寺子屋みたいになってたりね。
 ……そうでやんすねぇ。少しあたしのこともお話しやしょうか。あたし、猫です。白い毛に黒の斑点がある、近所の子曰く、ぶち猫でやんす。元は野良で、戸が開けっ放しになってた福さんのとこに出入りしてたんですが、居心地がよくて居付いちゃって。
 福さんはあたしがいれば餌も水もくれやすが、それ以外は深く関わってはきやせん。猫は自由気ままと分かってるように、勝手に出入りすることを許してくれてやす。今もそばで寝てるのを横目に黙々と仕事して。
 そう、あたしは昼寝中。夜に歩き回ることが多くて、昼は大概寝て過ごしやす。もちろん子供に見付からないよう傘の陰で。でも、日干ししていた番傘を福さんがしまいだしやした。
 普段より随分早く片付けるもんだと、あたしは半分寝てる顔で福さんを見上げやす。そうしたらね、福さんてば寝転がってるあたしを抱え上げて、井戸の脇にほっぽるんですよ。いいお人ではあるんですけど、時折扱いが酷い、荒い。
「幸、傘届けてくる。遅くなるから餌はなしだ」
 あ、そうそう、あたしの名前「幸」って言うんですよ。さち。幸せ招く、招き猫ってね。これは福さんが付けてくれた名前でやんす。あたしを雌猫と間違えてね。初めの頃にこうやって呼び始めて、気付いてからも変えられなかったんでしょう。ずっと幸で呼ばれてやす。
 福さんは身震いしてるあたしにどこからか出した傘を見せて、そのまま長屋の横道の方へ入って行きやした。
 注文されてた傘を届けに行く。それはいつものこと。寄り道をして遅くなるのだってそう。仕方なしに井戸の陰で丸まって、昼寝を続けようと尾を巻きやした。
「……あっ! さちだぁ〜っ!」
 げ。長屋の小僧っ子達があたしを見て指差してやすね。こりゃまずい。
 耳を立てて走ってくる子供を確認、すぐさまあたしも走り出しやす。消火用に積んである水桶の端を登り、長屋の屋根へ。
 陽射しがほんの少し優しくなった午後。そのままゆっくり昼寝の出来る場所を求めて、本命は今晩の餌を探しに。あたしは川の方へ向かいやした。

 月明かりで浮かび上がる木枠の障子。中に灯の明かりはありやせんが、もう福さんも帰っているはず。ここまで駆けて帰ってきたあたしは必死に爪で戸を掻きやした。単純にお腹空かせてるわけじゃぁありやせんよ? どうしても急ぎたいわけがあるんでやんす。
「にゃあ〜っ! うぅにゃ〜ぁんっ!」
 普段は爪で掻いて開けてもらえるのを待つか、もしくは爪も掛けずに外で一晩過ごしやす。でも、今晩はわけが違う。繋がれて吼える犬のように鳴き喚き、開けられもしない戸を掻き続ける。
「……幸? どうした。珍しく騒ぐな」
 薄灰の着物を着た福さんが、寝相で乱れた髪を掻きながら戸に隙間を作ってくれやした。あたしは戸から離れ、長屋の間に立って尾っぽをぷんっと振りやす。隙間から顔を覗かせた福さんは困り顔で頬をかりかり。
 数歩歩いては振り返り、必死に福さんを呼びやす。あの人はそれを分かってくれたのか、木戸を引いて出てきてくれやした。後ろ手に戸を閉めて、袖に腕を差して。溜め息一つでこのお人は付いてきてくれる。
 あたしね、餌探しの帰りにとんでもないものを見付けたんでやんす。それをどうしても見て欲しかった。とことこと歩いては振り返り、拾いものをした路地に福さんを導いていきやす。
 そして、辿り着いたそこで見たあたしの拾いものに、福さんはまた溜め息を吐きやした。確かにこんなもの拾いたくないでしょう。それでもあたしの良心が許さないんでやんす。これを捨て置くなんて出来ない。
「で、幸はこれをどうしたい」
 どうしたいってあなた、拾って欲しいから呼んだんじゃありやせんか。まさか見捨てるおつもりで?
 福さんはしゃがみ込んでそれをまじまじと観察し始めやした。路地でうずくまっているそれ。月明かりに浮かぶ切り傷で痛んだ着物の下、体まで血を流し傷だらけ。突付いても抓っても反応しないところを見て、死んでんじゃないかとか言い出して。それでも一応人の心を持ってる福さんは、それを拾う決心をしてくれやす。
「……これはとんだ拾いものになるな。手間だけが掛かりそうだ」
 福さんはそれに肩を組ませ溜め息を吐きやす。しっぽをゆらりと揺らし、あたしは「ありがとう」と薄灰の裾に擦り寄りやした。
 人気のない川沿いで、まるで酔っ払い達が猫に遊ばれてるような風景。福さんはあたしを足に絡ませながら、くすぐったそうに笑いやした。片足の草履を脱いで、ぶち柄の背をずりずりと足裏でさする。
「……実はな幸、お前が居付いてから少し羽振りがよくなったんだ。お前はいいものを持ってくる。仕事も物も。今までで一番良かったのは膨れた財布か? どこから拾ってくるのやら」
 福さんはああ言ってやすが、別に盗んだんじゃありやせんよ。このお人も悪いもんで、あたしが持ってきたものは全部自分のものにしちゃう。まぁ、分かってて拾うんですけどね。悪気なく言う福さんに尾っぽを揺らして答え、おっきな足に懐きやす。
「お前が拾うというなら、これも少しくらい役に立つかな」
 そう言って、あたしを跨ぎ福さんは歩き出しやした。足取りは軽くなくて、でもしっかりとしている。静かな夜に足音は響かない。表の道から誰か人を探すような声がしやしたが、その時の福さんは不思議とそっちへ声を掛けなかった。
 川沿いの風は秋のもの。夏が過ぎ涼しくなった頃、福さんに一人の人間さんが拾われやした。

「それ見とけ」と言われやした。
 一括りにした髪が揺れるのを目で追いながら、猫団子になったあたしは大人しくそこへ居座りやす。まぁ、温かくてふかふかして居心地はいいんだから、嫌と言う理由はありやせん。
 福さんはあたしを置いて外に出やした。でも、物を広げないまま戻ってきて、戸口にぶら下がってる傘を手に土間へ座り込みやす。この人、天気を読むのが上手いんですよ。今はお日さんも出て晴れてやすが、多分午後には雨が降る。中で仕事するんでやんすね。
 福さんが仕事を始めるかすかな音を聞きながら、あたしは首を伸ばして布団の向こうを覗き込みやした。
 この人間さんは拾ってきた時点ですでに眠ってやした。一応生きてやすけどもう丸一日、気を失っていると言う方が適切でやんすか、それはもう死んだように寝てやす。
 喧嘩でもしたんですかね。全身切り傷だらけで着物もぼろぼろ。それもほとんどが刀傷。血だらけ泥だらけになった着物の代わりに福さんの着物着せられてやしたが、明らかに裾が余ってた。
 随分と小柄でやんす。恐らく年も福さんより四、五歳下でしょう。髪は一応結ってありやしたが、それは雀の尾っぽ程度。いいとこのお坊ちゃんでないことは確実でやんすね。
 見た目からして活発そうな若造は、きっと起きたら騒がしいでしょう。拾われてきて、とりあえず福さんの布団を占領して、ちょっと前から寝言をごにゃごにゃ言い出して。ついでに、布団の上で丸まってるあたしを蹴りやがるんですよこいつ。
 せっかく猫が気持ちよく寝てたのに、長くもない足に潰されてもう布団の下敷きでやんす。
「〜〜〜っ!!!」
 もがきながら騒いでもこいつ起きやしない。濁点の付いた悲鳴を上げているのを聞いて、土間から押し殺した笑い声が上がってやす。酷いったらありやせん。
 必死になって抜け出したあたしはぷるぷると身震い。福さんにどうせ無視される抗議の目を向けやす。そして、思った通りに無視され、抗議する対象を若造に変えやした。
 若造の馬鹿そうな寝顔に向かって非難の声を掛け、短い髪に噛み付きやす。ぐいんと引っ張ると、若造は痛いのか痒いのか、虫でも払うように手を振りあたしを追い払いやした。
 横向きに寝ていた若造は反対に寝返りを打ち、どかされたあたしに顔を向ける形になりやす。煩いと言っているのかこもった声で唸り、そのまま薄く開いた寝ぼけ眼であたしのことをじっと見始めて……。
「うわぁっ! ぶち猫っ!?」
 失礼な奴。開口一番がそれでやんすか?
 でかい声が耳障りなもんで、耳を後ろへやったあたしは不満も露に毛を逆立て、鼻を鳴らしやす。がばりと起きてあたしを指差し、寝惚けているのか若造はぽかんとだらしなく口を開いている。後ろでは福さんが起きたことに気付き、お? と首を伸ばしやした。入ってきた涼しい風に後ろ髪が揺れてる。
「起きたか」
「!!」
 あたしの背後に福さんを見付けた若造が、唐突に強い警戒を見せやした。眼光が見て分かるほど鋭くなり、布団を蹴って飛び起きる。その素早さに驚いたあたしは部屋の隅に跳んで逃げやす。
 布団の上で仁王立ちになった若造に、福さんの方は特別驚いた顔もしやせんでした。ただ起きたと確認して、そのまま手元に視線を戻してしまいやす。何も感じないんですかね。戸口の脇に立ててある傘の一本を手に取って、もう若造がいることも忘れているよう。
 若造は何も言わない福さんに怪訝な顔を作り、手当てされた自分の体をあちこち動かし始めやした。そして、もう一度福さんの背中、毛を逆立ててるあたしを見て、いきなり脱兎の如く戸口へ駆け出しやした。
 だんっという床板を蹴る音に、静かな福さんの声が重なる。
「礼もなしか。お前はそこらの猫より恩知らずだな」
 戸口へ向かう若造の横から、引っ掛かれとでもいうように福さんが足を出しやした。恐らく若造は喧嘩慣れしてるんでしょう、それを事もなくひょいと飛び越え、得意げに「けっ」とうちの主人を笑いやす。そして……
「んげっ!?」
 顔面を細長い番傘で殴られやした。跳んでからじゃ突き出された物は避けられやせん。足元に気を取られて、調子に乗ったりするからこうなる。このお馬鹿。
 奇術めいた手捌きで出された番傘を顔にめり込ませ、若造は一瞬宙に浮きやした。手足だけが進み続けようと前向きなのに、本体は固定されて間抜けでやんす。声だって蛙が潰れたみたい。
 横目で阿呆を冷ややかに見ながら、福さんは番傘の柄を放しやした。ぼてっと音を立てて若造が落ちる。
「〜〜〜ってぇっ!」
「まぁ、出て行くのは勝手だ。だがそれは持って行った方がいい」
 言われた若造は反射的に番傘を握り、片手を軸に飛び退く。そして、刀を構えるようにその先端を福さんに向けやした。立ち位置は戸口の少し外。礼儀知らずはじりじりと後退りながら、顔に疑問符を浮かべてやす。
 すぐ噛み付く犬のような態度にも福さんは動じやせん。座ったまま若造を一度見上げ、こいつが起きた時と同じように視線を落としてしまいやす。そして、若造の疑問に答えるように、一言ぽつりと呟く。
「今日は夕立がある。俺の傘だが持っていけ。冷えた雨に濡れれば風邪を引く」
 その言葉にさえ若造は首を傾げるんですよ。心配されている意味が分からないというように。でも、福さんの番傘を握ったまま若造は走って出て行きやした。
 軒先にまだ吊ってある透明の風鈴。ちりんと鳴るそれを耳に、福さんは無言で若造の背を送りやす。あたしの方は非難がましく鳴いてやりやした。

 無礼な若造が嵐のように過ぎ去ったその日の午後。福さんの予報通り夕立がありやした。雨に降られ家で篭ってたあたしは、足音に耳を立てる。丸まって寝ていたあたしが急に首を伸ばしたもんだから、福さんもすぐその人に気が付きやす。
 もう止みかけの小雨の中、綺麗な桔梗色の蛇の目傘を差した女性が立ってやした。着物も桔梗の柄で、上品な雰囲気の人。でも年若いことは分かる風貌をしてやす。
 どこのお嬢さんでやんすかね。開け放たれた戸口から遠慮がちに「お仕事中申し訳ありませんが」と福さんに声を掛けてやす。見覚えのある傘を余計に一本持ってやすが、何事でしょう。
「あの、この傘の持ち主を探しているのですが、福龍さんというのは……?」
「俺だ。……だが、それは他の奴にくれてやった傘だ。もう俺のものじゃない」
 ちらりと傘を見たきりだんまりだなんて。福さん、素っ気ない対応じゃありやせんか。お嬢さんはきょとんと目を瞬かせ、手にした番傘を持て余してしまいやす。このままじゃしょうがないので、あたしはにゃぁんと鳴きながら土間のそばまで出て行きやした。
 あたしに気付いたお嬢さんは嬉しそうに顔を綻ばせ、見上げるあたしの頭を撫でてくれやす。仕草からも育ちの良さが感じられる。福さんは素っ気なくしたことを叱られているのが分かるのか、手は止めなくてもお嬢さんに上がっていくか? と呟きやした。
 上がっていくかと言っても、ボロ長屋の隅に客人迎えるような大層なとこなんてありやせん。あたしが座布団引っ張ってきて、土間に近い板の間に置いてやりやす。お嬢さんは猫がそんな芸当見せるもんだから喜んでくれやした。
「もう俺のものじゃない……でも、私はこれをあなたに返すよう言われておりますから、受け取って頂かないと困ります。それに、もう一度あの人にお会いしたいのです」
 このお嬢さんも気のしっかりした人でやんす。あんな対応されても臆することなく「失礼します」と座布団に座り、あたしを膝に乗せてはっきりと用件を伝えてくれやした。
 なるほど、あの人ってのは若造のことでしょうから、あれが何かやらかしたんですね。はた迷惑な奴め。
 澄んだ声は福さんを振り返らせるのに十分です。お嬢さんが差し出した番傘を受け取り、福さんはどうしたものかと溜め息を一つ吐きやした。
「分かった。この傘は受取ろう。だが、ここにいてもあれには会えない。あれはここを出て行った奴だ。名前も知らん」
 その言葉を聞いて、お嬢さんは気を落としてしまいやした。どこまでも素っ気ないお人でやんす。しかも、今日は雨で気が塞いでいるのか妙に声が渋い。手に取った傘を念入りに調べ「確かに俺のだ」とか言ってやす。
 あたしはてっきりあの若造がお嬢さんに何か迷惑かけて、捕まえるのに居場所を探してるんだと思ってたんですけどね。こうして見てても逃げられたとか悔しいとか、お嬢さんにそういう感じは一切ない。まさか、雨が降り出して困っている女性に傘差し出すなんてこと、あの礼儀知らずに出来るとは思えやせんが……。
 人間さんなら「眉を寄せた」顔をして、あたしは福さんの黒い目を見上げやした。無論、当てをなくしたお嬢さんに気の効いたことでも言ってやれという意味合いで。しかし、長く垂らした髪の根を掻きながら、あたしに気付かない福さんはなにやら困り顔。
「妙な傷がある。それと血」
 閉じてあった傘を開いて、福さんは張ってある紙をじとっとした目で観察し始めやした。お嬢さんの膝から降り、あたしもひょいと福さんの肩から手元を覗き込む。そして、小首を傾げる。
 確かに、閉じた傘の真ん中、刀で言えば一番切り合うあたり。骨はひび割れ、汚れた白い紙には誤魔化しようのない赤がこびり付いてやす。あの若造、福さんの傘を喧嘩の道具にしたって事でやんすかね。
 うちのご主人が困り顔をしてるのに気が付いて、お嬢さんはこの傘とあの若造について説明してくれやした。
 お嬢さんはその時お使いで外に出ていたそうでやんすが、身なりのいい娘さんが一人で歩いていれば、裏路地なんて言うまでもなく危ないもんです。若いお嬢さんが乱暴そうな男達に絡まれているというありがちな場面に、お嬢さんにしてみれば運良くあの若造が通りかかった。
 話によれば、いきなり絡んでいた奴の顔面に草履叩き込んだそうで。綺麗に跳び蹴りを決めて一人沈め、その後は福さんの傘を刀のように振り回し全員殴り倒したと。
 驚いたことに、若造は怪我の癒えない体で大暴れしたらしい。それも圧倒的な強さを見せて。まぁ、相手は武器なんて持っていなかったそうですから、怪我を言い訳に負けちゃ男が廃りやすけどね。
 活発そうな若造でしたが、喧嘩っ早いだけじゃなくて一応の人情があった様子。驚いているお嬢さんに掛けた言葉は「困ってたみたいだったから」。さらに、これから雨が降るらしいと福さんの傘を置いて行ったそうです。返せたら返して欲しいとも。
「傘に名前が入っていましたから、近所をあちこち聞いてみたのです。そうしましたら、ここの方が傘屋に福龍さんという人がいると教えて下さって。あの人の行き先とか、何か分かりませんか? 御礼も言い損ねてしまって」
 別に福さんは教えたくなくて言わないわけじゃありやせん。若造について少しも知らないまま逃がしてしまってるんです。教えたくても教えられることがない。でも、このままではあまりにもお嬢さんが不憫です。
 桔梗柄の着物の上で手を握り、お嬢さんは願うような目で福さんを見やす。華やかな簪がしゃらんと音を立て、福さんの沈黙を静かに責める。
「あれは逃げるようにここから出て行った。急いでいたのか、いや、拾った時に刀傷を持っていたから、誰かに追われているんだろう。無駄に関わらない方がいいと思う。それでも探すか?」
 飛び起きてから何かと攻撃的なところがありやしたね。どこぞの野犬じゃあるまいし、喧嘩に負けただけなら見知らぬ人にまで牙向けるようなことしやせん。問題を抱えてるに違いない。
 福さんの忠告に、それでもお嬢さんは食い下がってきやした。妙な執着だとは思いやしたが、福さんが思ったよりあっけなく折れたもんですから、あたしには物言う隙はありやせんでした。
 一人で帰すわけにもいかないと言って、福さんはお嬢さんを送っていきやした。それも、あたしも行くとせがんだもんだから、どろどろの道を歩かないようにと猫を抱えた不思議な格好で。猫抱えてるだけでも妙なのに、くたびれた着物で髪は髷にしてないでしょ? 福さんの風変わりな出で立ちに、初めは皆さん驚いてやした。でも、お嬢さんの振る舞いですぐ態度が変わった。
 凛とした声で事情を説明して、皆さんを瞬く間に納得させ、猫持ちの珍妙な男を客としてもてなさせる。福さんはともかく、あたしの方は目を丸くしてしまいやした。
 聞けばこのお嬢さん、とんでもないお人でね。この城下町で一、二を競う商人の末娘さんで、名は 鉄屋紫代(くろがねや しよ) さん。送られたことに対して律儀に礼を言い、あたしを「またね」と撫でてくれる。
 結局、福さんは店の中には入ろうとせず、若造が見付かったらここまで引き摺ってくるとだけ約束し、普段と変わりない、素っ気ない態度で鉄屋さんを後にしやした。にぎやかなのを好まないわけじゃなく、もてなしを受けるのが苦手な風です。
 小雨は止んでやしたが、あたしはまた肩の上。差してた傘を手に持って、首に尾っぽ巻かれて、少し鬱陶しそうにして。福さんは当てもなくぼんやり歩き始めやす。空は雲が千切れて青が見え始めてる。
「さて、約束はしたが居場所が分からんな。どうするか」
 嫌ですよ福さん。あたしに聞いたって答えられるわけないでしょ。
 にゃ〜んと鳴くあたしの喉元を撫で、福さんは大きな空を仰ぎやした。何を考えているのか、元から細い目をさらに細め、肩で息を吐きやす。
 上下する肩の上で小首を傾げるあたし。紡がれた言葉に耳が立つ。
「久しぶりに、少し暴れるか」
 おや。これは嵐の予感、でやんすかね?

 時は夕刻。朱色に染まったお天とうさんが屋根の向こうに隠れんぼを始める頃。
 幸はここで待っていろ。そう言い残して福さんは騒がしい所に入って行きやした。それも裏口から。人がいたんですけどね、福さんが何だか言ったら驚いたようにその人達は脇に避けちゃって。何言ったんでしょうね。
 ごちゃごちゃした区画ですが、一応道と呼べるものを挟んだ反対側、建物の陰であたしは大人しく座ってやす。
 見たところ福さんが入って行ったのは賭場でやんすね。あたしらのいる長屋の近くにはまずないもので、ちょいと遠出をすればこういうものが寄っている場所もある。そう、家から離れたところに来てやす。
 情報欲しさに傘屋の兄さんがこんなとこへ一人で入って、無事に帰って来られるんだろうか。そう心配しながら様子を見ていると、細く光を零していた戸口が綺麗に外へ飛んできやした。ついでに背中を向けたまま人間さんが飛んでくる。
 わらわらと数人の男が逃げるように駆け出で、次いで傘を持ちっぱなしで入っていった福さんが、傘を持たずに出てきやした。周りは小刀だの何だの持って威嚇しているのに、福さんはそんなもの見えていないかのような余裕ある雰囲気です。
 あたしは驚きに目を丸くしやすが、ご主人が帰ってきたことに一応の安心をしやす。
「にゃ〜ん?」
「……ああ、あれの大体の居場所が分かった。拾ってこよう」
 てててっと駆け寄ると、福さんは猫にもきちんと事情を説明してくれやした。付き合いの長さか、あたしは言えば分かる奴と思われてやす。まぁ有難い話で。
 脂汗を掻いている男達の中、うちの主人は悠々と表へ出てくる。何やら傘の代わりに黒漆の鞘に納まった刀なんて持ってやす。一体誰から奪ったのか、それを傘と大差ない気軽さでぶら下げてる。取り巻きはそれ以上追う気がないのか、追うことが出来ないのか、まるで番犬のように戸口から離れやせん。
 このお人が刀持っているなんて、あたしは初めてでやんす。ただ、あんまり当たり前の顔でいるもんだから、持っていて当然と感じてしまう。格好も商人、町人とは程遠く、くたびれたお侍さんと言っても頷けやすからねぇ。
 刀を腰帯に差し、福さんは散歩にでも行くような雰囲気で出て行く。そのまま賭場裏から雑居の表へ抜けかけた時、後ろから声を掛けてくるお人出てきやした。福さんが振り返らないので、代わりにあたしがそっちへ顔を向けてやりやす。
「やれやれ、役立たず共が騒々しい」と下っ端だろう男達に辛辣な台詞が飛ぶ。各々刃を下げ始めた取り巻きの中に艶やかな、しかし異様な立ち姿が増えてやした。その後さらに数人増えやすが、こちらは下っ端とは思えない風格を持った方々。怖いことにならやきゃいいですけど……。
「福龍、横取りなどあんまりじゃのぅ? とっくに刃を捨てたお前が、 (わらわ) の縄張りにまで足を踏み入れるとは……一体どういう風の吹き回しやら。わけありかえ?」
 黒地に赤い牡丹の描かれた、裾広の派手な着物。弧を描く唇もきつい赤。それは色が落ちたような白い肌によく映える。高く結われた髪には邪魔なほどの簪が挿され、彼女が動くたびにきらきらと光を跳ね返す。
 数人の童女を従え、気だるげに肌蹴た襟元を直して、ここの女主人でやんすかね。派手な女がねとーっとした目で福さんを見てやす。美人なのにそれが怖いなんて、不思議な体験です。……それにしても、横取りってどういうことでしょう?
「わけありだ。取られたくなければ止めればいい。だが、どうせ出来ないだろう。黙っていろ 鈴扇(りんせん)
 あたしにはいまだに話が見えてきやせんが、この二人は顔見知りらしい。福さんの冷たい言葉に鈴扇と呼ばれた女はつんと澄まし顔を見せやした。灰色がかった瞳が、まるで気位の高い猫みたいでやんす。
 機嫌悪そうに鼻を鳴らし、鈴扇は袖口から出した扇子で口元を隠しやした。鈴が沢山付いているもんだから、開くだけでも盛大な音が鳴る。あたしは煩いと耳を後ろへ折りやした。
「確かに。じゃがなぁ、お前とて不用意に関われば痛い目を見るぞえ? あれは遥か江戸から落ち延びてきた流れ者。他人の手駒じゃ。元の主が捕らえた者に相応の礼をすると言ってきておる。奪い合いに加わるか?」
「少し借りるだけだ。用が済めば手は引く。なんなら昔のよしみだ、引き摺ってきてやろうか。後から売り飛ばすなり何なりすればいい」
「昔のよしみなどと……ふざけた男じゃのぅ。人斬りから成り上がり散々裏町を牛耳った挙句、血は見飽きたとここを捨て、今は静かに隠居暮らしじゃと? 好き勝手な生き方は変わらぬな。名だけ遺し出て行った者が、予告もなしに帰ってくるものではない。どうやって情報を聞き出したか知らぬが、可哀相に、突付かれた蜂の巣じゃ」
 首だけ傾げるようにして振り返る福さん。どうやらあの若造の首には懸賞が付いている様子。それも、表の役人さんからではなく裏の覇者から。鈴扇は自分の支配地で見付けた獲物だから「横取りするな」と言ったんでやんすね。
 さらに驚きの事実が。お酒に酔って冗談言ってたんだと思ってやしたが、このお人は本当に刀差してたらしい。聞き違いでなければ人斬りだったとか。まさかこんなぼさっとした人がねぇ。そうは見えやせんが。
 尾っぽを垂らし、あたしは福さんを見上げやした。今更このお人を怖がる気もありやせんし、若造についてどうこう言う気もさらさらない。ただ、無言でいる福さんがどんな顔をしているのか気になって。
「まぁ、お前が出て行ってくれたおかげで妾は今の地位にある。感謝しよう。あの小僧が欲しいなら攫ってゆけばよい。煮るなり焼くなり、好きに弄べ。ああは言ったが、お前が江戸のぼんくらにやられるとは到底思えぬ。『龍』を敵に回せば、痛い目を見るのは恐らく奴らじゃろうて」
 福さんは薄く笑ってやした。何の意味があるのかは分かりやせん。鈴扇に背を向けたままよいしょと屈み込み、あたしの白黒斑の体を抱え上げやす。あたしの背を撫でながら、用は済んだと福さんの歩みは再開する。
「福龍、お前は『龍』じゃ。そして、我らは『龍』を鎧う者。今も変わらぬ。ここに戻らずとも、顔くらい見せに来よ。役立たず共も躾けておく。次はきちんと迎えよう、我らが主よ」
 しゃんと音を立て扇子が閉じられる。牡丹の裾を鮮やかに捌き、鈴扇は着物が汚れるのも構わず跪きやした。頭を垂れる女主人に続き、取り巻きもそれに習う。下っ端でさえ揃わない動きでおずおず膝を着く。
 肩越しに、あたしはその光景を不思議な気持ちで見てやした。単なる傘屋のお兄さんに、強面の方々が服従を見せてるなんて。しかし、福さんは足も止めず答えもせず、あたしを抱えたままその町を出て行きやした。
 角を曲がった後「追い手を戻らせよ」と言った鈴扇の声ありやしたが。多分このお人には聞こえてないでしょう。

「……近い」
 あたしらのいる長屋よりごちゃごちゃとした長屋街。勝手の分からない場所にもかかわらず、目的の奴がどこにいるのか知っているように足は進んでいく。猫の耳なら遠い足音も聞き取れる。でも、このお人がどうやってそれをやってるのか、ちっとも分かりやせん。耳がいいのか、もしくは単なる勘でやんすかね。
 ぼそりと言って、福さんは長屋の影に足を止めやした。あたしを腕から下ろし、腰に差していた刀を鞘ごと手に取る。そのまま壁に背を付け、立ち寝をするようにして目を閉じてしまう。
 月が雲に隠れ、薄灰の着物が福さんの存在を闇に溶かしてくれる。静かに寝たふりをしていれば、これは壁と同化出来そうでやんす。
「にゃあ〜」
「騒ぐな幸。もうすぐこっちに来る」
 腕を組んだ静かな立ち姿をちらりと見上げ、待つ気なら仕方ないとあたしは上へ登りやす。屋根の上を伝って夜闇を渡り、物音のする方へ近付いていく。うちのご主人は余計なことをするなとは言っても、特別止めたりしやせん。普段通りあたしの自由にさせてくれた。
 駆けて行ってまず見付けたのが、いかにも悪役ですという面の男三人組。薄汚れた着物の裾を蹴って走り、何かを追ってやす。もちろん、追っているのはあたしらの探しものでもあるあの若造ですけどね。
 足元、屋根の下を駆け抜ける男を上で追い越し、福さんの着てた着物に追い付く。そう、追い付くなんて簡単。傷持ちに加え疲れがある。足は上がってやせん。
 転ぶのが先か、追い付かれるのが先かという切羽詰った追い駆けっこにあたしも加わりやす。屋根からひょいと飛び降り、井戸蓋を蹴って若造に並ぶ。あたしに気付いた若造が驚きに素っ頓狂な声を上げやした。
「あぁっ!? お前! いつかのぶち猫っ!? 何やってんだっ?」
 こいつにぶちって言われると何故か腹が立つ。へとへとでぼろぼろのくせに、口だけは達者なんだから。
 ちらりとでも知った顔を見てか、声には嬉しげな色がありやした。あたしは耳を後ろにやって不満を見せやすが、この馬鹿は少しも気付きゃしない。傘は返しただの着物がでかいだのつべこべ言いながら走って、意外と元気そう。ただ、斬り傷は増えて痛々しい様子です。
 息を切らしながらも文句を垂れ、若造は話しかけることを止めやせん。寂しがり屋なんですかね。馬鹿面ですけど、懸賞付けられてまで追われてる奴には見えない。仲間が出来てはしゃぐ子供でやんす。
「なぁぶちっ。あの無愛想な感じの奴っ何か言ってたかっ?」
 もちろん答えを求めた台詞ではありやせん。大体、動物からまともに答えが返ってきたら気味悪いでしょ。
 まぁ、にゃんとくらい答えてやろうと、あたしは口を開きやした。でも、自分が走ってきた道を思い口を閉じやす。
 走っていて視界が揺れても、あたしはそれを見逃しやせん。三つほど先の路地から、闇に紛れて薄灰の裾が小さく覗いてる。そう、この大声なら筒抜け。あたしが答えなくってもあのお人が答えてくれる。
 若造はあたしがいるからといって福さんを警戒してなんかいやせん。角を一つ過ぎ、あたしは走りながら若造の馬鹿面を見上げやした。あたしが顔を向けたのが嬉しかったのか、若造はにへらと笑ってやす。このお馬鹿。
「あの無愛想ってお前の飼い主だろっ? なぁぶちっ?」
「それは幸だ。もう一つ、俺の名は無愛想じゃない」
 三つ目の角。通り過ぎざまに刀をつん出され、若造はそれを腹に喰らいやした。ぐえっと蛙のように呻き、刀を支えに前回りをして尻で着地。尻餅着くと痛〜い骨がありやすけど、それを押さえながら若造は地べたを転がりだしやした。心にもありやせんが、一応言っときやす。可哀想に。
 あたしは福さんが上げた刀の下を駆け抜け、くるりと後ろを向く。視界には日本刀抜き放った男達が映りやす。どうやらあちらさんにはこのお人が見えてない様子。追ってきていた三人組は、若造が転んだもんだからこれ見よがしに突っ込んでくる。
 若造は何とか迎え撃とうと、片手を腰に当て立つだけ立ちやした。しかし、ふらりとよろけ膝を着いてしまう。その前に進み出で、無表情な福さんが滑らかな動作で腕を上げやした。握られた刀はまだ鞘の中。
 暗がりから唐突に出現した影に反応出来ず、一人目はあっけなく胴を薙がれる。腰からくの字に折れて、長屋の壁へ弾き飛ばされやした。
 二人目三人目は構えることに成功。ただ、鈴扇のとこで見た通り、構えただけで勝てるほど福さんは甘くない。冷たい刃が涼やかな音と共に鞘から抜き放たれる。
 走り込みながら上段に刀を振り上げたのは二人目の男です。しかし、振り下ろした銀線は途中で途切れ、妙な方向へすっ飛んでいく。それはだんと音を立てて木戸に突き立ちやす。
 懐から駆け上がる刀に両断され、刃を折られたことに気付けたでしょうか。二人目は引き戻された柄をみぞおちに叩き込まれ、唾を吐きながら前のめりに倒れやす。
「……悪い。久々で加減を間違えたかもしれない」
 男から柄を引きながら、横を通り抜けざまに恐ろしいことを言い放つ福さん。みぞおちって下手に突かれると死にやすけど、大丈夫でしょうねぇ?
 返事は倒れた男からではなく、三人目の罵声という形で返ってきやした。大きく振り被ったりせず、三人目は首筋へ正確に斬り込んで来る。しかし、福さんはそれをこともなく漆染の鞘で受け止める。
 右手に握った刃が翻る。三人目の男はある程度やれる人間さんだったようで、すぐに太刀を引きしゃがんで筋を避けやす。唐突に現れた相手が強いもんだから焦ってるんでしょう。それでも渡り合えると思ったのか、緊張には笑みが混ざってる。
 足首を斬ろうと瞬時に構え、笑みが濃くなった顔。その鼻っ柱に、灰色がめり込む。
「怪我をすると男前が上がると聞いた。良かったな」
 しゃがんでちょうどいい位置にあった顔面に、このお人は膝蹴りを喰らわせ満悦と笑みを見せてやす。あたし、こういう時の福さんは怖いです。
 鼻血を垂らしながら、口から白いものでも出そうな顔で三人目は倒れやした。福さんはそれで良しとしたらしく、ありもしない血を払うように刀と鞘を振り収めてやす。借り物だろうに、傷も見ないなんて扱いはぞんざいでやんすね。
 馬の尾にも似た髪が揺れ、薄灰の袖が大きく秋の夜風を孕み広がった。雲が月を避け、薄暗い影は月光にはっきりと輪郭を生む。まるで黒い異形の鳥が舞い降りたような、どこか不吉な影が落ちてやした。
 後ろを向いたままの福さん。その長い影に抱かれ、若造は身じろぎもせず呆然と倒された三人を眺めてやす。今まで不動を決め込んできたあたしは若造の横を駆け抜け、福さんの足にまとわりつきやした。
「お前、うちを出てから女を一人助けたろう? 傘を返しにきて、お前に礼が言いたいと言ってきた」
「あ……ああ、そ、か」
 福さんの言葉に金縛りが解けたよう。若造はぺたりと座り込みやした。福さんはしまいこんだ刀を倒れた男の横に置き、「返しとけ」と呟きやした。そして、またあたしを肩に乗せてくれる。
 福さんは後ろを振り返り、ぼけっとしている若造を見下ろす。ずかずかと近寄り、その襟首を掴みやした。
「俺はその女にお前を引き摺っていってやると約束してきた。だから来てもらう」
 怪我人相手なのに、福さん酷い。拾ってきた時の傷だけじゃなくなってるの、分かっててやるんでやんすか?
 あんまり無造作なもんだから、息苦しい痛いと若造は手足をばたつかせて抵抗してやした。でも、福さんはそんなことお構いなしに、本当に引き摺っていきやす。まぁ、あたしは他人事なので若造を鳴いてからかってやすけど、本人の方は言うまでもなく必死でしょう。
「痛いっつってんだろっ! ぐるしいしっ!」
「にゃ〜ん? なぁ〜ん?」
「〜〜〜ぶち煩いっ。あんたっ俺に関わると酷い目見るぞっ! 今みたいな奴らに追い回されるぞっ!」
 そう叫んだ若造が、それきりぴたりと声を発しなくなりやした。何事かと目を上げれば、倒され置いていかれた三人組のそばに、似たような悪役面が数人たかってやした。若造とそれは目が合ってしまったのか、じっと見詰め合ってしまって。
 福さんも気付いたのか、立ち止まり後ろを見やすが、一瞥したきり前を向いて歩き始めてしまう。向こうは若造から目を引き剥がし、うちの主人に小さく礼を見せ三人組みを拾っていきやす。
 固まっていた若造はぎこちなく福さんの尾っぽを見上げ、敵意も見せず引き下がっていく男達とあたしらを見比べやした。やっぱり驚きやすよねぇ。
「……あんた、何者?」
「福龍」
「そーじゃなくてっあいつら、この辺りを仕切ってる奴だろっ? それがどうして何も言わずに下がっていくんだっ? 奴らも俺を追ってた。この首に掛かってる金が欲しくて。簡単に見逃すわけないだろっ」
 ぎゃーすか騒ぐ若造に、福さんはそれ以上答えやせんでした。知る必要はないと言いたいのか、何を言われても聞かれてもそ知らぬ顔でそっぽを向いて。そのうちに、若造の方が黙って動かなくなりやした。
 疲れか、一応の安心か。大人しくなっても福さんは構いやせん。しかし、よ〜く耳を澄ますと子供そのものの寝息が聞こえてきやす。あたしの尾っぽに頬打たれて、それに気付いた福さんはやっと、引き摺るのを止めやした。
 立ち止まって顔を覗き込んで、福さんは小馬鹿にした台詞を呟いてからあたしを下へ降ろしやす。そして、今度はあたしの代わりに若造を肩に担ぐ。人は見た目じゃ分かりやせんね。体格が良いとは言えないお人なのに、この人は人一人分の重さを感じないように振舞うんだから。
 月が雲から顔を出し、明るくなった夜道。福さんは軽くないけどしっかりとした足取りで、のんびり歩きながら小さく呟きやした。あたしはどうせ分かってないだろうと思いつつ答えやす。
「今日はもう遅いな。今から鉄屋に行くのも迷惑だろう」
「にゃ〜ん」
「本当に手間がかかる拾いものだ。……また布団占領されるのか」

「あぁぁあぁぁぁぁっ!!」
 夢見が悪かったんでやんすかねぇ。盛大な叫び声と共に、こいつはまたあたしを布団の下敷きにしてくれやした。
 足広げて寝てたもんだから、あたしゃその隙間に丸まってたんでやんすよ。そしたらがばりと起きて布団を二つ折りにして、あたしは間に挟まれて。
 怒る気も起きなかったので、仕方なくけばけばになったまま寝たふりを続けやす。ちなみに、若造はあたしが足の間、布団の上に置かれた腕の間で潰れていることに気付きやせん。
「起きたか」
 前回と同じ台詞で、福さんは遠くから声を掛けてきやした。若造はあの時と同じように布団を蹴って立ち上がり、蹴り飛ばされて布団から転がり出たあたしをまん丸な目で見詰めてきやす。その後、ふいっと真っ黒で大きめの瞳が福さんに向く。
 あたしが見た限り昨日より警戒というものは薄くなってる。救われたという事実から、福さんが自分を狙ってないと分かったようでやんす。一応安心して良い相手だと。それでも視線には多少のきつさがありやす。
 それを受ける福さんはいつもと変わらず、静かな目で一度見たきり手元に意識を戻してしまう。今日の福さんは朝から外で仕事してやす。沢山の傘に囲まれて、戸口の向こう、屋根の影にいるうちの主人。その姿を見て気が抜けたのか、若造は布団にぽすっと座り込んでしまいやした。
 また走り出るようなことをするのかと思ってたのに、驚きやした。部屋の隅で耳を動かしてるあたしに、若造は「悪かったよ」とむくれ顔を作って呟く。前回とは態度がぜんぜん違いやすね。さらに、
「お、おはよ……」
 後ろを向いて仕事を続けている福さんの背に、若造は敵意の欠片もない声を掛けやした。……敵と決め付け傘を向けたことか、それとも昨晩無愛想と呼んだことか……ばつが悪いというような雰囲気まで滲んでやす。一応罪悪感を感じるくらいの頭はあるようで。
 福さんも丸くなった感のある若造には棘を向けやせん。にっこりとは言えやせんが、障子の陰で薄っすらと微笑んでやした。
「ああ、よく寝てたな」
「……ありがとう、ありがとう、ありがとう」
「……なんだ?」
 流石に意味が分からなかったのか、福さんは手を止めて首を伸ばして、こっちを覗いてやす。胡坐を掻き、布団の上で俯いたまま、若造は視線も合わせない。あたしも福さんも静かに答えを待ちやす。
「……拾ってくれてありがとう、助けてくれてありがとう、二回目拾ってくれてありがとう。あと、あんたのこと悪い奴だと思ってたのはごめん」
 若造の言葉に福さんは一瞬固まってやした。あたしも目をぱちぱちして座ったまま人で言う怪訝な顔を浮かべやす。若造はと言えば、口を尖らせ福さんのいる前、あたしのいる右手を避けた左を向いてしまう。
 福さんはその様を見た後、ぼんやりと青いお空へ目を投げやした。まだしまわれてない、季節外れな風鈴がちりんと鳴る。
 途端に福さんが笑い出しやした。障子に背と頭を預け、喉を反らしてそりゃもう盛大に笑う。
「なっ!? 何で笑うんだよっ!!」
 福さんの爆笑に若造は噛み付きやす。ただでさえ驚いて尾っぽが毛羽立っているのに、若造がぴょいと立ち上がってばたばた駆けてくもんだから、あたしは毛玉みたいになっちゃって。まぁ、どんな状況でも若造はあたしの迷惑なんて知りやせんけど。
「おかしいから笑うに決まってる」
 げらげら笑っていたのを無理矢理収め、横に立った若造に「それがどうした」とからかいの目を向けやす。見上げられた方は瞬間納得したという顔を見せやしたが、すぐさま「そうじゃない」と食い下がりやした。
 福さんは静かな面を付け直してて、もう若造が相手を出来る状態は終わってやす。適当にあしらわれたようで、しょげた若造は地べたにしゃがみこんでしまいやした。
 手元の仕事を再開した福さんと、ぽつりぽつり他愛もない話を始める若造。あたしも聞きたくて、板の間を渡り福さんのそばに寄ろうとしやした。でも、途中で若造の手に捕まり、わしわしと撫でられる。
 不満たっぷりの目で寝癖の頭を見上げても、こいつは悪気なく白黒斑の体を抱き上げ嬉しそうに笑う。まったく、無邪気ほど厄介なものはありやせんよ。引っ掻くことも出来ない。
「あんた、傘屋なんだな」
「ああ」
「でも馬鹿みたいに喧嘩強いんだな」
「そうでもない」
「……人とまともに話するの、久し振りだ。お日さん浴びてるのもいつぶりだろう」
「そうか」
「なぁ、俺が何やらかしたか、あんた知ってんのか?」
 追われている身であることに対して、福さんは欠片の詮索もしてやせん。それが不思議なんでしょう。知らずに拾ってきたなら何も聞かないのはおかしい。金づると分かって拾ったなら逃げられる状況など作らない。
 怯えや恐れから逃げるなんて行動を取った奴が、今日は随分人懐こい顔をしてやす。暴れる寸前のあたしをぎゅっと抱え、若造は単純な疑問の瞳で福さんを見る。答える声は静かで、内容も素っ気ないものでやんした。
「知らないし、知る気もない」
 福さんの嘘吐き。鈴扇から多少聞いていることはあったのに、このお人はそれを告げやせん。さらに、本当に紫代さんのところへやった後手放す気なのか、知ろうともしない。
 虚を突かれたような顔をして、きょとんと若造は固まりやした。しかし、驚いた顔は次第に色を落とし、寂しい、悲しいという感情を見せ始める。そんな顔をすると迷子みたいでやんす。捨てられると知った犬でもいい。
「じゃ、俺が助けた奴のとこに俺引っ張ってって、そのまんま手ぇ放すんだ?」
「そのつもりでいる」
「なんで、最初拾ったんだよ。興味のない怪我人なんて。心配だったとか? 期待するじゃんか」
「幸が拾えと言ったから」
 器用に竹を組んでいく福さんの隣で膝を抱え、若造は膝と腹の間にあたしを抱く。抱かれているあたしからはよく見えたやした。不安に曇り、傷付いたような顔をしてるのが。
 こいつはどこかに拠り所を求めてたんでしょうか。恐らく、若造はわけあって追われ、さまよった挙句全てに怯えるようになった。ここにきてやっと安心出来そうな場所を見付けたのに、それを撥ねつけられてしまった。
 まぁ、福さんが要らないというなら、居候のあたしにはもの言えやせん。一度拾ってくれただけでもありがたいことだったのに、逃げ出してややこしくしたのは若造ですしね。そもそも、そう上手く話は進むはずないでしょう。
「あの時出て行かなかったら、あんた、俺のことどうする気だった?」
「さぁな。お前がどうしたいと言ったかによる」
 骨だけの傘をくるくると回し、福さんが歪みを見て探す。地面に車輪が回ってるような影が出来て、つい追いかけたくなってしまう。目で影を追ってるあたしの頭を撫でながら、若造は静かに問いかけを続けやした。
「ここに置いてくれって言ってたら?」
「雑用に使った。最近手が足りなくなっていたからな。寝床くらい貸しただろう」
 静かに傘を閉じ、再びあちこち触れたり翳したりする。若造はずっと見ているのに、一度も福さんの目は若造に向かない。夏に置いて行かれた風鈴が鳴り、福さんの長い髪がさらりと揺れる。
「俺は追われているし、今までの生き方がまともじゃなかった。始末屋だよ。東の裏を纏めてるとこで、役立たずとか裏切り者を消すのに使われてた。そこから逃げてきた。多分、俺は災難を呼ぶと思う。でも、迷惑掛かるの分かってても、一人でいるなんてもう耐えられない。いつだって人を疑って、いつ自分が消されるかも分からないで、怖くて気持ち悪くて。少しくらいまともに生きたかった。あんた強いしいい奴なんだろ? ずっと敵だらけでここまで来たけど、あんたは違いそうだ。なぁ、我が儘だろうけど、今ここに置いてくれって言ったら、まだ置いてくれるか? やっぱり、こんな危ない奴って分かったら、だめかな」
 この表向き明るい御時世でも、手を血に染める者なんて履いて捨てるほどいやす。道理を貫ける方が少ないくらいかもしれない。物騒な薄暗い世界の、最も深い闇から這い出てきた若造に、何か感じるものがあったんでしょうか。
 もはや期待もしても無駄かという声で言われ、作業を続けていた手がほんの少し止まりやした。福さんの黒い目がちらりと手元から上がり、若造ではなくあたしを見やす。
「どうする幸? 初めに拾えと言ったのはお前だ。厄介者らしいが、これは役に立ちそうか?」
 単なる独り言ではなく、猫を相手に真面目な答えを求めてる。若造は「正気か?」と眉を寄せてあたしを見下ろしやす。前足の付け根を掬い立たせ、若造は首を傾げてくる。少し、あたしの答えを期待してる目。
 本当は怪我をしていたから、それを治すのに拾ってくれと言ったんでやんす。居付くなんて思ってなかった。でも、もしこのままここに拾うとしても、福さんに迷惑かける素性の奴なら要らない。
 手先はそこそこ器用そうで、恩を売っておけば大人しく言うこと聞きそうで、扱い方も子供と変わりなさそうで。福さんの手伝いは仕込めば問題はないでしょう。ただ、やはりお尋ね者というのが問題でやんす。
 結局、あたしは「役に立ちそうか」という点でのみ是と鳴きやした。問題があることはこのお人も分かっているでしょうし、あたしが拾えと言っても嫌なら拾ったりしやせん。
 福さんは傘を膝の上に置き、若造からあたしをひょいと取り上げやした。そして、顔をあたしに向けたまま、目だけを若造に向け小さく笑みを見せる。
「さっさと顔洗って礼を言われて来い。帰ってきたら届け物がある。使ってやるから、早く行け」
「あ、え、と。わ、分かったっ。……あのさ」
 ばたばた立ち上がり部屋の奥へ駆けてって、戻ってきたかと思ったら顔だけこっちに覗かせて。恐々といった感じの「ありがとう」が口からこぼれた。でも、顔見ればそれは嬉しさ一杯の無邪気なもの。
 向き直った福さんはからかうように鼻を鳴らし、若造の目の前にあたしを突き出しやす。馬鹿面があんまり近いもんだから、邪魔だと足裏で蹴り飛ばしてやりやした。やられた若造は笑みを貼り付けたまま半眼に。
 しかし、やり返そうとした若造へ一括入りやす。まったくいいざまでやんす。立場を知りなさい。
「感謝する相手は俺じゃなく幸だ。仲良くしろよ」

 濃紺で足元に渦巻き柄の入った着物。腰のと別に斜め掛けにした帯で、晴れてるにもかかわらず白っぽい番傘を背負って。雀の尾っぽ程度に結った黒髪を揺らし、若い男が白黒ぶち柄の猫と走ってる。もちろん妙な光景にすれ違う人は振り返る。
 ちょっといいことがあったからって、こいつ大急ぎで帰ろうとしてるんですよ。別にゆっくり行こうが立ち止まろうが、それは消えやしないのに。どうも思考がお子様でいけやせんね。
 長屋の細い路地へ入り、近所の方々に「元気だねぇ」と声掛けられながら、若造は一番端、鮮やかな蛇の目傘や質素な番傘の咲く方へ駆け寄る。川風に吹かれそこへ座り込んでいたあたしの主人が、煩いのを見付けて小さく吐息を吐いているのが見えやした。今日は何て言われるでしょう。
「福龍ただいまっ。見ろよこれっ! 綺麗なのもらった!」
「ん? 金平糖か、砂糖菓子だ。そんな高価な物をどこで……。もらいものか? 礼は言っただろうな?」
 言動が馬鹿丸出しでやんすよ。もっと言って下さいな福さん。
 見せられた珍品に眉を寄せ、福さんは溜め息を増やしやす。結局しまわれずに冬も越した風鈴。己の季節が来たと嬉しげにちりちり鳴ってやす。若造もまた嬉しげに頷いて。
 この若造が拾われてもう一年になる。鈴扇の根回しか、「福龍」が付いたという事実が敵を遠ざけているのか。問題を抱えていたにもかかわらず、あれ以来、若造を追って訪ねてくる奴は一人も現れやせんでした。
 こう遥か遠くまで追うほどにこいつは裏を知っている、重要な情報を握っている。もしくは敵に回すと厄介な、生かしておくと後々自分が首を取られかねない手だれなのではないか、と福さんは読んでやした。
 確かに、拾った枝で打ち合いなんかすれば、そこらのお侍さんより余程筋が良かったようでやんすが、福さんが言うには「よく裏で生き延びられた」程度らしい。特別な秘密も持っていなかったし、何故執拗に追われていたのかは分からずじまい。ただ、時々見せる早業・軽業は福さんを出し抜く腕がありやした。
 恐らくは、このまま伸びれば脅威になる、忍の類の者なんでしょう。それを惜しんだか、恐れたか。
 いつか、福さんが珍しいものを拾ったかもしれないとぼやいてやしたが、その筋で若造を生かす気はないようで、見て見ぬふりをしてやす。傘を届けるような外向きをな仕事を主に、今は傘を作る方も手習い中。やらせてみれば思った通りの器用さで上手くこなしてる。覚えも早いもんですから、きちんと福さんのお役に立ってやす。
 他にも若造が助けたあの紫代お嬢さんから、いい具合に仕事が舞い込んでくるようになりやした。どうもお嬢さんはこの傘屋が、というか若造のことが気に入ったようで、あちらこちらに紹介してくれているらしい。ご自分も福さんに傘を作ってもらって、嬉しそうにしてやしたからね。自慢しているんでしょう。
 そう、若造は自分を商売上手とでも勘違いしたようで、「ただの居候と違う」とあたしをからかう立場を築いてる。腹立たしいことこの上ない。
「あっちの主人がすごく喜んでてさ、いい仕事してるってあんたのこと褒めてたぞ」
「それはよかった」
 あっさりと返す福さんに、若造はもっと喜べとぶすくれてやす。こんなのも日常風景になりつつある。騒々しい奴に慣れてきた自分がまた複雑でね。
 そばに寄ってきて金平糖を一つ摘まみ、若造は本当に美味しいのだという幸せそうな顔で口に放りやした。そして、福さんの手を掴み、無理矢理広げた掌にも金平糖を乗せる。白い星に苦笑し、仕事の邪魔をして困った奴だと溜め息を吐く。それでも福さんは白い粒を口に含む。まるでやんちゃ坊主と親父さんみたい。
「美味い?」
「ああ」
「へへ、よかった。俺だけ美味しい思いしても仕方ないからな。おすそ分けな」
「ほう、分かっているじゃないか。大勢で笑いながら食べる物は何でも美味い。なら、もっと他の奴にも分けてやればいい。甘い菓子なら紫代が喜ぶだろう」
 確かに、若造が出向けば紫代さんも喜ぶでしょうねぇ。道徳的なことと余計なことまでさらりと言ってのけた福さん。ついでに晩御飯に使うからといくつか野菜の注文を付けやした。
 人使いが荒いと文句を垂れつつ、結局遊びに出る理由を得た若造は嬉しそう。菓子袋片手にぴょこんと立ち上がりやす。
 これで少し静かになる。安心して昼寝が出来るってもんです。……しかし、そうは問屋が卸さないのが世の倣い。物事ってのは上手くいかない。
「じゃぁちょっと行ってくるっ。ぶち! お前福龍の横が安全だと思ったら大間違いだぞっ! 来いっ!」
「ん゛にゃぁっ!?」
 ああ酷い。まるで川から鯉でも釣り上げるように、この馬鹿はあたしの長い尾っぽを思い切り引っ張る。千切れたらどうしてくれるんでやすか。夏の陽炎、幻でいい。猫だって涙くらい流したい。
 魂の抜けた顔で引っ張られて行くあたしは、何とか救いを得られないかと福さんに懇願の瞳を向けやす。あたしの良き理解者が、視線を受けひょいと立ち上がる。
 着物の裾を叩き、馬の尾っぽのような髪を後ろへ退けた。そばに開いてあった紺の番傘へ寄り、それを閉じて、何やら駆けてく若造の背に狙いを定めてやす。そして投げる。あたし、救われやすかね?
「こら待て吉虎。背中の傘の代わりだ。穴が開いてたろう」
 背に負った傘のど真ん中に、まるで槍が突き立つようにそれが刺さる。直撃していないだけ痛みは少ないでしょうけど、後ろから不用意に力を受け若造はつんのめる。菓子持った手をとは言いやせん。あたしの尾っぽを放せば手が着けただろうに、馬鹿は顔面を着きやした。
 吉虎。吉運の付いた虎。いえ、憑いてるのは救われないあたしの恨み辛みか、はたまた福さんに加減なくいたぶられる運命の星か。無論、同情は欠片もしやせんよ。
 道連れに地へ落ち、埃まみれで白黒に茶を増やした三毛のあたし。口で言えば分かるのにと本性も露に殺気立つ若造改め吉虎。文句があるなら言ってみろと、力を見せ付けつつ無言で威圧する福さん。
 普段通りの騒ぎに近所の小僧っ子達が集まってくる。遠く、井戸端で話し込んでいた奥さん方が、遊ばれてるあたしらを笑ってるのが腹立たしく感じやした。

 あたしが居付いて羽振りがよくなった。若造が居付いてもっとよくなった。拾う判断をしたあたしの功績か、金運の強い若造の功績か。どちらにしても福さんのあたしらに対する態度はさして変わりやせん。
 思えば龍の庇護のよう。そうと望む内はいくらでも居座ればいい。出て行きたくなれば出て行けばいい。口で言わず、このお人は仕事してる背中でそう言い続けてくれる。
 幸せ招く猫。吉付きの虎。福を呼ぶ龍、否、福を与える龍。
 機会があればまた、あたしらのどうでもよすぎるお話語らせて頂やす。長くお付き合い頂き、ありがとうございやした。

−終−


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